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2007年09月25日 (火) | 編集 |
酔って候<新装版> (文春文庫)
司馬 遼太郎

酔って候<新装版> (文春文庫)
幕末 (文春文庫) 新装版 アームストロング砲 (講談社文庫) 人斬り以蔵 (新潮文庫) 最後の将軍―徳川慶喜 (文春文庫) 新装版 王城の護衛者 (講談社文庫)
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「酔って候」(土佐・山内容堂)、「きつね馬」(薩摩・島津久光)、「伊達の黒船」(宇和島・伊達宗城(ムネナリ))、「肥前の妖怪」(肥前・鍋島閑叟(カンソウ))。

戦国時代、土佐は長宗我部(チョウソカベ)家が支配していたが、関が原の戦い後は山内家のものとなった。
長宗我部家の武士は郷士、山内家の武士は上士として、他藩に比べ特に厳しい階層があったという。
山内容堂はその中でも特にその意識の強い人であった。
維新回天をなしたのは薩長土肥の四藩などというけれど、明治政府の重鎮に土佐出身者が一人も出なかったのは偏に容堂の所為だろう。
容堂に感化された上士は、郷士を蔑む頭しか持たず、いつまで経っても時流の流れを読めずにいた。
郷士は土佐にいても何もできないため、次々と脱藩(坂本竜馬、中岡慎太郎ら)、他藩の志士と交流を深めていた。
武市半平太は脱藩せずにいたが、容堂により切腹を命ぜられた。
武市は三文字に腹を切ったという(普通は一文字に切った後、介錯を受ける)。
土佐の志士たちは次々と倒れ、竜馬、慎太郎も大政奉還直後に暗殺される。
すべて藩すなわち容堂の所為だと思っている。
藩公認の他藩の志士たちは生き延びたではないか。
容堂は自らを「鯨海酔侯」と称したが、まさしく酒に酔って何も見えなかったのだろう。
福井・松平慶永(春嶽(シュンガク))、宇和島・伊達宗城、土佐・山内豊信(容堂)薩摩・島津斉彬(ナリアキラ)を幕末の四賢候と言うが、容堂は何を以て賢候と言うのか。

薩摩の久光は四賢の斉彬の弟である。
久光の生母の画策により、斉彬の没後久光の息子・忠義が藩主となり、久光自身は藩主の父という立場から実験を持つ。
斉彬に取り立てられた西郷隆盛を嫌っていたため、西郷が維新後政府を動かすのも気に食わなかったらしい。
公的には「藩主の父」としての立場以外何もないにもかかわらず、廃藩置県にも従わず、困り者であったよう。

伊達宗城についてはよく知らない。
物語は伊達藩にて蒸気船を造った職人の話に終始している。
なお、宇和島藩祖は伊達秀宗で、独眼流・伊達政宗の長男である。
秀宗の生母が政宗の正室ではなかったため、仙台藩の後嗣とはならなかった。
仙台藩は、政宗の次男で、正室の子・忠宗が継ぐ。

肥前は、佐賀港を有していたことから、いわゆる“鎖国”の中にあって海外に通じていた。
閑叟は、藩政の実権を握るや、破綻していた財政の再建を図り、再建がなったあとは軍備を洋式化していった。
その軍備は当時の日本で最強であり、薩長は倒幕をなすためにどうしても肥前を味方に引き込もうとした。
肥前以外に軍備の洋式化を考えていたのは越後長岡の河井継之助あたりだが、河井は討幕軍と対立し、北越戦争で戦死してしまった。
人材という意味で、河井、大村益次郎、高杉晋作、中岡慎太郎が生き残り、閑叟と意を通じたら、どれほど面白いことになったかと思う。
第一線で活躍した志士は、第一線にいたがために倒れてしまった。

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介錯介錯(かいしゃく)は切腹するに際し、腹を切る時の痛みを軽減するために対象者の首を刀で刎ねる動作を言う。実際には、扇子などで切腹する動作を真似ただけで介錯するなど、腹部に傷を付けることなく施すことがあった。介錯には切腹に限らず世話をするという広い意味も
2007/09/29(Sat) 19:50:50 |  日本の文化を学ぶ。